-かけがえのない人たち-
バトルマガジン2002年12月号より





 11月9〜10日に開催されたINTERTECにて、2002年スーパー耐久シリーズが幕を閉じた。終わってみると一年あっという間に、風のように早くすぎて行っちゃったって感じ。本当に時間がたつのが“あっ”というまだったな。例えていうなら、朝起きたらもう夜だったみたいな。あまりにも早すぎて、今年も1才年をとったことすら忘れちゃうよ(笑)

今年はカーコンビニ倶楽部・中古車情報誌カッチャオ、翼システム関連企業をメインスポンサーになってもらうことができ、今までにないすばらしい体制で念願のステップアップをすることが出来た。憧れのスーパー耐久クラス2とF4参戦。
 


ランサーで参戦するにあたって、メンテナンスガレージを栃木県宇都宮市にあるターマックプロレーシングチームにお願いすることになった。社長の川口さんはとても明るく気さくな人、しかし1本筋がとおっていてレースにかける思いはは並々ならぬ情熱を持っている人だ。初めて話をしたとき「この人と一緒にレースを戦いたい」と、直感で感じたんだ。その直感を信じ、開幕までいろいろ飛び回ってレースを戦える体制を作っていった。
 


予算の都合で、参戦車両は4年落ちのエボ5。他のチームがみんなエボ7で参戦しているというのに、これはかなり無謀ともいえる挑戦だった。だけどその時の自分はこのマシンにかけるしかなかった。初戦のMINEは参戦しなかったので、事実上の開幕は第2戦のハイランドスーパー耐久から。

大人気のスーパー耐久はこの日沢山の予選落ちがあった。各クラスから何台か落ちるんだけどクラス2のチームは、誰もがエボ5の私のチームが落ちると思って安心しきっていた。それを一番感じていたのはまぎれも無いうちのチーム。私は不安で不安で2週間前くらいから心配で、川口さんに心配になって何度も電話したんだ。そのたびに監督は「絶対大丈夫」の一点張り。しかも根拠はないそうだ(笑)
 


そして、予選。なんとわがターマックプロレーシングチームは無事予選を通過した上に、決勝では表彰台まで上がってしまったのだ。他のチームのトラブルにも助けられたけど、これは正直腰を抜かしてみんな驚いた。どうしてうちのチームが表彰台に上がれたのか!?監督が毎日夜なべして、旧型のエボ5をどうやったらライバルと互角に戦えるのか必死になってクルマをいちから作り直してくれていた。一gでも軽くするために、一生懸命一生懸命頑張ってくれ、その結果が表彰台。
 


快進撃はその後も続き、3戦連続表彰台に上がることが出来た。私にとって、スーパー耐久で表彰台に上がることは本当に夢で、しかもそれがどれだけ大変なことか良く知っていた。ノーマークだったうちのチームが、「ふりむけば70号車」と言われるようにまでなれたのは川口さんとチームクルーのおかげ。

後何十年かして、自分の人生を振り返ったときに「この人と出会えてよかった」と言える一人のなかに、きっと川口さんの名前は上がるだろう。村田博信選手と一緒に組めたこともかけがえの無い財産になった。


2002年はかなり充実した内容のレースを戦えたと思う。ただ、一番悔しかったのはランサーというクルマを乗りこなせないで一年が終わったこと。ドライバーにとってクルマを操ることが最大の喜びならば、その喜びは一度も味わうことが出来なかった。この現実は本当に悔しい。

ドライバーとして私はまだまだ半人前だ。女性ドライバーで速いとか言われるのは目標じゃない。レースに男女は関係ない。目標は一流の速いレーシングドライバーになること。来年も無謀な挑戦は続けていく予定なので、皆さんもぜひこれからも応援してください!



 
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